145年1月 当時 32歳、隴西_秦演に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年6月 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年11月 導江_耿信士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年11月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 合治城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年7月 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
146年7月 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
146年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
147年9月 東陽_杜勝の支配する粟邑の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年10月 東陽_杜勝の支配する黽平の地を訪れる。 住民との会話などから巴西_相里軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年11月 蜀郡_餘丘洪の支配する廣陽の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから沛郡_濮陽軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年12月 東海_季孫裔の支配する水章の地を訪れる。 この地の知者との話などから東陽_杜軍の人物関係をそれとなく理解する。
148年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、東陽_杜軍に仕官する。 彼が 36歳の時であった。
148年1月 穀昌の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年1月 廣望の地を拠点とする、汲郡_不弟宇宰相揮下の西部方面軍に配属。
148年2月 廣望の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
148年2月 楚郡_黄晏士率いる楚郡_黄軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣望城に立て籠もる。
148年2月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年2月 廣望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年7月 平棘の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 前衛騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 江夏_頓領平棘を制圧。
148年9月 東陽_杜鮑中大夫指揮のもと安平_張国華望城攻略戦に参加。
148年12月 華望城は停戦命令のため撤退。
148年12月 高柴の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
149年5月 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと北地_苗国達昌城攻略戦に参加。
149年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、達昌城攻略は断念。 兵を退く。
149年10月 第2次高陽の戦いにおいて、南陽_呂軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 南陽_呂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり南陽_呂軍士として登用される。
150年1月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 宣城_扶袤下大夫指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
150年7月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 南陽_呂支公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
151年1月 汲郡_不弟宇宰相指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
151年1月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年7月 東陽_杜鮑卿指揮の東陽_杜軍に高陽城を包囲される。
152年3月 長沙_紀泰の支配する乘丘の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年4月 齊郡_盆成豁の支配する覇陵の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから酒泉_ケ陵軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年5月 鬱林_雍門嵩の支配する櫟陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから長沙_紀軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年6月 長沙_紀泰の支配する皐虞の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから酒泉_ケ陵軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年7月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、鬱林_雍門軍に仕官する。 彼が 40歳の時であった。
152年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
152年8月 青蛉の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 青蛉地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
152年9月 昌陽の地を拠点とする、鬱林_雍門贇卿揮下の南西部方面軍に配属。
152年9月 敵侵攻によって孤立した昌陽の地において、 暫定自治を始めた鬱林_雍門贇卿に従うことになる。
153年4月 第2次水章の戦いにおいて、安平_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 水章地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
153年4月 呉郡_將梁展卿指揮の安平_張軍に昌陽城を包囲される。
153年4月 安平_張軍の猛攻を防ぎきれず、昌陽城は落城する。
153年4月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
156年6月 代郡_韓休の支配する穀昌の地を訪れる。 この地の知者との話などから中山_學軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年7月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、鬱林_雍門軍に仕官する。 彼が 44歳の時であった。
156年7月 到城の地を拠点とする、瑯邪_陳建宰相揮下の西部方面軍に配属。
157年2月 瑯邪_騫勃士指揮のもと武陵_張国資中城攻略戦に参加。
157年6月 資中東の攻防戦において、武陵_張軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 武陵_張領資中を制圧。
157年6月 瑯邪_騫勃上士指揮のもと武陵_張国資中城攻略戦に参加。
157年6月 城内への強行突入に成功、資中城を陥落させる。
158年1月 襄平の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
158年4月 鬱林_雍門軍国高樂城攻略戦に着手。
158年11月 瑯邪_陳納下大夫指揮のもと東陽_杜国成固城攻略戦に参加。
158年11月 城内への強行突入に成功、成固城を陥落させる。
159年3月 第2次便屏の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 瑯邪_義領便屏を制圧。
159年9月 瑯邪_義習公率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である便屏城に立て籠もる。
160年1月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、瑯邪_義軍は撤退。
160年1月 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
160年3月 便屏の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
160年3月 博望西の戦いにおいて、永昌_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 永昌_張領博望を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 47歳。
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