101年1月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董竒当時配下武将


◆ この月、清河_張軍が汝南_郭軍領上蔡に侵攻開始。

密偵により、清河_張軍来襲の情報を掴んでいた、汝南_郭軍は、すでに上蔡の地に向かっていた。

数日後、両軍は 上蔡の地で互いを捕捉する。

清河_張支公が指揮する清河_張軍 34431人と、金城_浩卿の指揮する汝南_郭軍 18051人が激突した 上蔡西の攻防戦と呼ばれるこの戦いは、汝南_郭軍の勝利に終わった。

清河_張軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、南郡_將軍軍は地方叛乱鎮圧のため軍をおこす。漢中_棘叛乱軍占拠地区薊に侵攻開始。

密偵により、南郡_將軍軍来襲の情報を掴んでいた、漢中_棘軍は城を出て迎撃することを決めた。

数日後、両軍は 薊の地で互いを捕捉する。

東平_張統下大夫揮下、参謀 常山_銭廉士が指揮する南郡_將軍軍 14821人と、漢中_棘穰公の指揮する漢中_棘軍 18129人が激突した 薊西の攻防戦と呼ばれるこの戦いは、漢中_棘軍の勝利に終わった。

南郡_將軍軍常山_銭廉士は、捕らえられ、処刑された。享年 47歳であった。

この戦いで南郡_將軍軍は、常山_銭廉、 を失った。

南郡_將軍軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領曲阜に侵攻開始。

密偵により、彭城帝国軍来襲の情報を掴んでいた、新城_公子軍は、すでに曲阜の地に向かっていた。

数日後、両軍は 曲阜の地で互いを捕捉する。

陳留_盂祕王揮下、参謀 漢陽_激巴下大夫が指揮する陳留_盂軍 52921人と、通路_爬羨上大夫揮下、参謀 新興_西王j宰相の指揮する新城_公子軍 76378人が激突した 第2次曲阜の戦いと呼ばれるこの戦いは、新城_公子軍の勝利に終わった。

巴郡_忌軍濟北_陳游上士は、捕らえられる直前、自害した。享年 38歳であった。

巴郡_忌軍陳郡_張禎士は、捕らえられ、処刑された。享年 42歳であった。

この戦いで彭城帝国軍は、濟北_陳游陳郡_張禎、 を失った。

彭城帝国軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、漢中_輔軍が呉郡_董軍領邯鄲に侵攻開始。

密偵により、漢中_輔軍来襲の情報を掴んでいた、呉郡_董軍は、すでに邯鄲の地に向かっていた。

数日後、両軍は 邯鄲の地で互いを捕捉する。

南郡_董默下大夫揮下、参謀 彭城_左史玄上士が指揮する漢中_輔軍 32747人と、豫章_李敞上大夫揮下、参謀 上谷_唐邵中大夫の指揮する呉郡_董軍 19582人が激突した 邯鄲南の戦いと呼ばれるこの戦いは、漢中_輔軍の勝利に終わった。

漢中_輔軍の侵攻作戦は成功した。邯鄲は漢中_輔の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、漢中_輔軍 南郡_董默は、中大夫に昇進する。

漢中_輔軍 彭城_左史玄は、下大夫に昇進する。



◆ この月、廬江_甫爽国の廬江_甫爽矩公は、漢中_輔領への侵攻を示唆。討議の上、開戦が決定される。

◆ この月、廬江_甫爽軍が漢中_輔軍領函谷関に侵攻開始。

密偵により、廬江_甫爽軍来襲の情報を掴んでいた、漢中_輔軍は、すでに函谷関の地に向かっていた。

数日後、両軍は 函谷関の地で互いを捕捉する。

廬江_甫爽矩公が指揮する廬江_甫爽軍 37732人と、汝南_鄭援上大夫揮下、参謀 汝南_鄭統中大夫の指揮する漢中_輔軍 56563人が激突した 函谷関の戦いと呼ばれるこの戦いは、廬江_甫爽軍の勝利に終わった。

廬江_甫爽軍の侵攻作戦は成功した。函谷関は廬江_甫爽の制圧下に置かれた。





◆ この月、内政の功績により、南郡_將軍軍 昌黎_董禮は、上士に昇進する。



101年2月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董竒当時配下武将


101年3月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董竒当時配下武将


◆ 漢中_輔国と、巴郡_忌国は、共通の敵を、新城_公子国であるとし、同盟関係を築く。

◆ この月、新城_公子軍が巴郡_忌軍領昌国に侵攻開始。

密偵により、新城_公子軍来襲の情報を掴んでいた、巴郡_忌軍は城を出て迎撃することを決めた。

数日後、両軍は 昌国の地で互いを捕捉する。

新興_西王愼上大夫が指揮する新城_公子軍 61435人と、巴郡_忌攸公揮下、参謀 南郡_鮭韜卿の指揮する巴郡_忌軍 68399人が激突した 第3次昌国の戦いと呼ばれるこの戦いは、新城_公子軍の勝利に終わった。

巴郡_忌軍巴郡_忌攸公は、捕らえられる直前、自害した。享年 71歳であった。

この戦いで巴郡_忌軍は、巴郡_忌攸、 を失った。

新城_公子軍の侵攻作戦は成功した。昌国は新城_公子の制圧下に置かれた。

新城_公子国は巴郡_忌国を完全征服するに至る。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領高陽に侵攻開始。

密偵により、彭城帝国軍来襲の情報を掴んでいた、新城_公子軍は、すでに高陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 高陽の地で互いを捕捉する。

北海_楊徇下大夫が指揮する陳留_盂軍 27865人と、新興_西王j宰相の指揮する新城_公子軍 47429人が激突した 第2次高陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、新城_公子軍の勝利に終わった。

陳留_盂軍南平_鐸遏冑士は、捕らえられ、処刑された。享年 23歳であった。

陳留_盂軍梁郡_李盛下大夫は、捕らえられ、処刑された。享年 46歳であった。

この戦いで彭城帝国軍は、南平_鐸遏冑梁郡_李盛、 を失った。

彭城帝国軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、廬江_甫爽軍が河上_廖軍領剣閣に侵攻開始。

密偵により、廬江_甫爽軍来襲の情報を掴んでいた、河上_廖軍は、すでに剣閣の地に向かっていた。

数日後、両軍は 剣閣の地で互いを捕捉する。

新野_堪囘卿が指揮する廬江_甫爽軍 33540人と、遼東_楊翼中大夫の指揮する河上_廖軍 25043人が激突した 剣閣の戦いと呼ばれるこの戦いは、廬江_甫爽軍の勝利に終わった。

廬江_甫爽軍の侵攻作戦は成功した。剣閣は廬江_甫爽の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、廬江_甫爽軍 樂安_孟先は、上士に昇進する。



◆ 漢中_輔国の漢中_輔基公は、領土拡大のため、南郡_將軍国に宣戦を布告する。晋陽へ侵攻開始。

◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領晋陽に侵攻開始。

密偵により、漢中_輔軍来襲の情報を掴んでいた、南郡_將軍軍は、すでに晋陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 晋陽の地で互いを捕捉する。

彭城_左史玄下大夫揮下、参謀 臨海_馬寓下大夫が指揮する漢中_輔軍 20317人と、南郡_將軍孟卿の指揮する南郡_將軍軍 49697人が激突した 第4次晋陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、南郡_將軍軍の勝利に終わった。

この戦いで南郡_將軍軍は、南郡_將軍孟卿、 を失った。

漢中_輔軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。

この戦いの功績により、漢中_輔軍 廣平_梁伶は、上士に昇進する。

南郡_將軍軍 合浦_嬰亨は、上士に昇進する。





◆ この月、内政の功績により、漢中_輔軍 樂平_橋助は、下大夫に昇進する。



101年4月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
清河_張支当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董竒当時配下武将


◆ 歴史の流れは群雄割拠時代と呼ばれる時代に入る。

◆ この月、漢中_輔軍が、呉郡_董軍領鉅鹿に侵攻開始。

鉅鹿のは孤立しており、漢中_輔は労せずして占領を開始した。

漢中_輔軍の侵攻作戦は成功した。鉅鹿は漢中_輔の制圧下に置かれた。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領曲阜に侵攻開始。

密偵により、彭城帝国軍来襲の情報を掴んでいた、新城_公子軍は、すでに曲阜の地に向かっていた。

数日後、両軍は 曲阜の地で互いを捕捉する。

蜀郡_斯忠上大夫が指揮する陳留_盂軍 42536人と、通路_爬羨上大夫揮下、参謀 淮陽_陰參中大夫の指揮する新城_公子軍 52750人が激突した 第3次曲阜の戦いと呼ばれるこの戦いは、新城_公子軍の勝利に終わった。

この戦いで新城_公子軍は、潁川_封康下大夫、 を失った。

彭城帝国軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。

この戦いの功績により、新城_公子軍 淮陽_陰參は、上大夫に昇進する。



◆ この月、南郡_將軍軍は地方叛乱鎮圧のため軍をおこす。漢中_棘叛乱軍占拠地区薊に侵攻開始。

密偵により、南郡_將軍軍来襲の情報を掴んでいた、漢中_棘軍は城を出て迎撃することを決めた。

数日後、両軍は 薊の地で互いを捕捉する。

河東_展ケ上大夫揮下、参謀 河東_徐達中大夫が指揮する南郡_將軍軍 24996人と、漢中_棘穰公の指揮する漢中_棘軍 26911人が激突した 第2次薊の戦いと呼ばれるこの戦いは、漢中_棘軍の勝利に終わった。

南郡_將軍軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、汝南_郭軍が清河_張軍領城陽に侵攻開始。

密偵により、汝南_郭軍来襲の情報を掴んでいた、清河_張軍は、すでに城陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 城陽の地で互いを捕捉する。

北海_史瑤中大夫が指揮する汝南_郭軍 26583人と、梓潼_賈j下大夫の指揮する清河_張軍 25593人が激突した 第2次城陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、汝南_郭軍の勝利に終わった。

清河_張軍清河_張俊下大夫は、捕らえられ、処刑された。享年 49歳であった。

清河_張軍西海_部熙上士は、捕らえられる直前、自害した。享年 24歳であった。

この戦いで清河_張軍は、清河_張俊西海_部熙、 を失った。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。城陽は汝南_郭の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、清河_張軍 梓潼_賈jは、中大夫に昇進する。



◆ この月、汝南_郭軍が清河_張軍領六に侵攻開始。

密偵により、汝南_郭軍来襲の情報を掴んでいた、清河_張軍は、すでに六の地に向かっていた。

数日後、両軍は 六の地で互いを捕捉する。

金城_浩卿が指揮する汝南_郭軍 28410人と、新城_何瑾下大夫の指揮する清河_張軍 2992人が激突した 六北の攻防戦と呼ばれるこの戦いは、汝南_郭軍の勝利に終わった。

この戦いで清河_張軍は、新城_何瑾下大夫、 を失った。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。六は汝南_郭の制圧下に置かれた。



◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領襄国に侵攻開始。

密偵により、漢中_輔軍来襲の情報を掴んでいた、南郡_將軍軍は、すでに襄国の地に向かっていた。

数日後、両軍は 襄国の地で互いを捕捉する。

南郡_將軍軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

野戦をあきらめた、南郡_將軍軍は襄国城に立て篭もった。

汝南_鄭統中大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸卿率いる城兵に撃退され、襄国城は持ちこたえる。



◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領督亢に侵攻開始。

野戦をあきらめた、南郡_將軍軍は督亢城に立て篭もった。

城内の兵 283人、それに対し包囲した軍勢 20453人、もはや大勢は決しているかに見える。

汝南_鄭援上大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

結果、ついに最後の城門も突破、督亢城は陥落した。

漢中_輔軍の侵攻作戦は成功した。督亢は漢中_輔の制圧下に置かれた。

高興_南公統邑宰 は失意の中、自らの命を絶った。

河東_展ケ上大夫 は漢中_輔に捕縛された後、処刑された。



◆ 漢中_輔国の 鉅鹿_王機下大夫が病死 。享年 59歳だった。

◆ 陳留_盂朝彭城帝国の 安豐_宋祀下大夫が病死 。享年 56歳だった。

◆ 呉郡_董国の 呉郡_董竒公が病死 。享年 64歳だった。



◆ 呉郡_董国では、今年で 45歳となる呉郡_董佑が後継者として後を継ぐこととなった。



101年5月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董佑当時配下武将


◆ 歴史の流れは4大国時代と呼ばれる時代に入る。

◆ 漢中_輔軍による、南郡_將軍領襄国城攻略は包囲開始より、 1ケ月が経とうとしている。

汝南_鄭統中大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸卿率いる城兵に撃退され、襄国城は持ちこたえる。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領高密に侵攻開始。

野戦をあきらめた、新城_公子軍は高密城に立て篭もった。

陳留_盂祕王率いる、彭城帝国軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 敦煌_劉石邑宰率いる城兵に撃退され、高密城は持ちこたえる。



結局、彭城帝国軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 陳留_盂祕王は高密城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

高密城は敦煌_劉石邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ 漢中_輔国の 樂平_橋助下大夫が病死 。享年 58歳だった。





101年6月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董佑当時配下武将


◆ 漢中_輔軍による、南郡_將軍領襄国城攻略は包囲開始より、 2ケ月が経とうとしている。

汝南_鄭統中大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸卿率いる城兵に撃退され、襄国城は持ちこたえる。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領高陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、新城_公子軍は高陽城に立て篭もった。

北海_楊徇下大夫率いる、彭城帝国軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 沛郡_斜崇邑宰率いる城兵に撃退され、高陽城は持ちこたえる。



結局、彭城帝国軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 北海_楊徇下大夫は高陽城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

高陽城は沛郡_斜崇邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領晋陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、南郡_將軍軍は太原城に立て篭もった。

彭城_左史玄下大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 沛郡_秦量邑宰率いる城兵に撃退され、太原城は持ちこたえる。



結局、漢中_輔軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 彭城_左史玄下大夫は太原城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

太原城は沛郡_秦量邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、廬江_甫爽軍が河上_廖軍領広漢に侵攻開始。

野戦をあきらめた、河上_廖軍は広漢城に立て篭もった。

武キ_懸潘胤下大夫率いる、廬江_甫爽軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 常山_夷門欽邑宰率いる城兵に撃退され、広漢城は持ちこたえる。





101年7月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
清河_張支当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
呉郡_董佑当時配下武将


◆ 廬江_甫爽軍による、河上_廖領広漢城攻略は包囲開始より、 1ケ月が経とうとしている。

武キ_懸潘胤下大夫率いる、廬江_甫爽軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 遼東_楊翼中大夫率いる城兵に撃退され、広漢城は持ちこたえる。



◆ 漢中_輔軍による、南郡_將軍領襄国城攻略は包囲開始より、 3ケ月が経とうとしている。

汝南_鄭統中大夫率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸卿率いる城兵に撃退され、襄国城は持ちこたえる。



◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領曲阜に侵攻開始。

野戦をあきらめた、新城_公子軍は曲阜城に立て篭もった。

沛郡_第五深中大夫率いる、彭城帝国軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 襄陽_中英乾邑宰率いる城兵に撃退され、曲阜城は持ちこたえる。



結局、彭城帝国軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 沛郡_第五深中大夫は曲阜城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

曲阜城は襄陽_中英乾邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、汝南_郭軍が清河_張軍領西陵に侵攻開始。

野戦をあきらめた、清河_張軍は西陵城に立て篭もった。

金城_浩卿率いる、汝南_郭軍は城の周囲を完全に取り囲み、城を孤立させている。

守備兵は完全に抵抗する意志を失い、陽平_杜嵩邑宰はついに降伏を決断した。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。西陵は汝南_郭の制圧下に置かれた。

琅邪_竺益梓潼_賈j中大夫 は捕虜になることをよしとせず、自害した。

陽平_杜嵩邑宰 は捕縛され、汝南_郭の軍門に下る。

馮翊_朱染士 は汝南_郭に捕縛された後、処刑された。



◆ この月、汝南_郭軍が清河_張軍領随に侵攻開始。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。随は汝南_郭の制圧下に置かれた。

東郡_向秀邑宰 は乱戦の中、自らの命を絶った。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。随は汝南_郭の制圧下に置かれた。

◆ この月、汝南_郭軍が清河_張軍領番陽に侵攻開始。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。番陽は汝南_郭の制圧下に置かれた。



◆ この月、内政の功績により、河上_廖軍 東海_随平は、上士に昇進する。



101年8月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
清河_張支当時配下武将
汝南_郭遐当時配下武将


◆ この月、南郡_將軍軍は敵包囲を粉砕すべく 襄国に兵を集める。 漢中_輔軍は、城の駐屯地で急襲を受ける。

数日後、両軍は 襄国の地で互いを捕捉する。

汝南_鄭統中大夫が指揮する漢中_輔軍 50894人と、南郡_將軍翹公揮下、参謀 博陵_郭雅上大夫の指揮する南郡_將軍軍 88900人が激突した 襄国の戦いと呼ばれるこの戦いは、南郡_將軍軍の勝利に終わった。

南郡_將軍軍の襄国城救出作戦は成功。漢中_輔軍は、むなしく本土へと撤退していった。

南郡_將軍は、そのまま国境に兵を駐屯 させることにした。

この戦いの功績により、南郡_將軍軍 博陵_郭雅は、卿に昇進する。

南郡_將軍軍 東平_張統は、中大夫に昇進する。



◆ 廬江_甫爽軍による、河上_廖領広漢城攻略は包囲開始より、 2ケ月が経とうとしている。

武キ_懸潘胤下大夫率いる、廬江_甫爽軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 遼東_楊翼中大夫率いる城兵に撃退され、広漢城は持ちこたえる。



結局、廬江_甫爽軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 武キ_懸潘胤下大夫は広漢城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

広漢城は遼東_楊翼中大夫の健闘により守り抜かれた。

河上_廖艷公は、遼東_楊翼中大夫に、その地に駐留するよう命じた。



◆ この月、内政の功績により、汝南_郭軍 零陵_公緒黼は、上士に昇進する。



101年9月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
清河_張支当時配下武将
汝南_郭遐当時配下武将


◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領襄国に侵攻開始。

野戦をあきらめた、南郡_將軍軍は襄国城に立て篭もった。

漢中_輔基公率いる、漢中_輔軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸卿率いる城兵に撃退され、襄国城は持ちこたえる。



結局、漢中_輔軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 漢中_輔基公は襄国城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

襄国城は廣陵_張咸卿の健闘により守り抜かれた。

南郡_將軍翹公は、廣陵_張咸卿に、その地に駐留するよう命じた。



◆ この月、新城_公子軍が陳留_盂朝彭城帝国軍領琅邪に侵攻開始。

野戦をあきらめた、陳留_盂朝彭城帝国軍は琅邪城に立て篭もった。

淮陽_陰參上大夫率いる、新城_公子軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 信キ_馮軻邑宰率いる城兵に撃退され、琅邪城は持ちこたえる。



結局、新城_公子軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 淮陽_陰參上大夫は琅邪城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

琅邪城は信キ_馮軻邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、廬江_甫爽国の廬江_甫爽矩公は、漢中_輔領への侵攻を示唆。しかし、討議で新野_堪囘卿の「時期にあらず」の主張が通り、開戦は延期となる。



101年10月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
清河_張支当時配下武将
汝南_郭遐当時配下武将


◆ この月、漢中_輔軍が、南郡_將軍軍領武城に侵攻開始。

武城のは孤立しており、漢中_輔は労せずして占領を開始した。

漢中_輔軍の侵攻作戦は成功した。武城は漢中_輔の制圧下に置かれた。



◆ この月、漢中_輔軍が南郡_將軍軍領沮陽に侵攻開始。

密偵により、漢中_輔軍来襲の情報を掴んでいた、南郡_將軍軍は、すでに沮陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 沮陽の地で互いを捕捉する。

平干_孫聯下大夫が指揮する漢中_輔軍 21228人と、廣陵_張咸卿の指揮する南郡_將軍軍 45351人が激突した 沮陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、漢中_輔軍の勝利に終わった。

漢中_輔軍の侵攻作戦は成功した。沮陽は漢中_輔の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、漢中_輔軍 彭城_左史玄は、中大夫に昇進する。



◆ この月、汝南_郭国の汝南_郭静公は、漢中_輔領への侵攻を示唆。討議の上、開戦が決定される。

◆ この月、汝南_郭軍が漢中_輔軍領新鄭に侵攻開始。

密偵により、汝南_郭軍来襲の情報を掴んでいた、漢中_輔軍は、すでに新鄭の地に向かっていた。

数日後、両軍は 新鄭の地で互いを捕捉する。

金城_浩卿が指揮する汝南_郭軍 38087人と、汝南_鄭統中大夫揮下、参謀 臨海_馬寓下大夫の指揮する漢中_輔軍 53071人が激突した 新鄭の戦いと呼ばれるこの戦いは、汝南_郭軍の勝利に終わった。

汝南_郭軍の侵攻作戦は成功した。新鄭は汝南_郭の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、汝南_郭軍 五原_田袤は、上大夫に昇進する。



◆ 廬江_甫爽国の廬江_甫爽矩公は、領土拡大のため、漢中_輔国に宣戦を布告する。臨晋へ侵攻開始。

◆ この月、廬江_甫爽軍が漢中_輔軍領臨晋に侵攻開始。



野戦をあきらめた、漢中_輔軍は臨晋城に立て篭もった。

城内の兵 1174人、それに対し包囲した軍勢 67020人、もはや大勢は決しているかに見える。

新野_堪囘卿率いる、廬江_甫爽軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

結果、ついに最後の城門も突破、臨晋城は陥落した。

廬江_甫爽軍の侵攻作戦は成功した。臨晋は廬江_甫爽の制圧下に置かれた。

梁郡_屈南毅邑宰 は乱戦の中、自らの命を絶った。





101年11月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
汝南_郭静当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
清河_張支当時配下武将
汝南_郭遐当時配下武将


◆ この月、廬江_甫爽軍が漢中_輔軍領陝城に侵攻開始。

野戦をあきらめた、漢中_輔軍は陝城に立て篭もった。

廬江_甫爽頌下大夫率いる、廬江_甫爽軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 天水_杜毅邑宰率いる城兵に撃退され、陝城は持ちこたえる。



結局、廬江_甫爽軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 廬江_甫爽頌下大夫は陝城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

陝城は天水_杜毅邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ 新城_公子国の新興_西王j宰相は、領土拡大のため、漢中_輔国に宣戦を布告する。武城へ侵攻開始。

◆ この月、新城_公子軍が漢中_輔軍領武城に侵攻開始。

密偵により、新城_公子軍来襲の情報を掴んでいた、漢中_輔軍は、すでに武城の地に向かっていた。

数日後、両軍は 武城の地で互いを捕捉する。

漢中_輔軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

野戦をあきらめた、漢中_輔軍は武城城に立て篭もった。

通路_爬羨上大夫率いる、新城_公子軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 象郡_賀沛下大夫率いる城兵に撃退され、武城城は持ちこたえる。



結局、新城_公子軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 通路_爬羨上大夫は武城城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

武城城は象郡_賀沛下大夫の健闘により守り抜かれた。

漢中_輔基公は、象郡_賀沛下大夫に、その地に駐留するよう命じた。



◆ 汝南_郭国の 汝南_郭静公が病死 。享年 53歳、かつての名将がこの世を去った。



◆ 君主が死去した汝南_郭国では有力者であった、金城_浩が跡を継ぐ形となった。

これを不服とする幾人かの武将達は国を去っていったという。



101年12月
漢中_輔基当時配下武将
陳留_盂祕当時配下武将
新城_公子貔当時配下武将
廬江_甫爽矩当時配下武将
金城_浩当時配下武将
南郡_將軍翹当時配下武将
河上_廖艷当時配下武将
清河_張支当時配下武将
汝南_郭遐当時配下武将


◆ 金城_浩国と、陳留_盂朝彭城帝国は、共通の敵を、新城_公子国であるとし、同盟関係を築く。

◆ この月、陳留_盂朝彭城帝国軍が新城_公子軍領高陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、新城_公子軍は高陽城に立て篭もった。

陳留_盂祕王率いる、彭城帝国軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 淮陽_陰參上大夫率いる城兵に撃退され、高陽城は持ちこたえる。



結局、彭城帝国軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 陳留_盂祕王は高陽城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

高陽城は淮陽_陰參上大夫の健闘により守り抜かれた。

新城_公子貔公は、淮陽_陰參上大夫に、その地に駐留するよう命じた。



◆ この月、南郡_將軍軍が漢中_輔軍領蒲陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、漢中_輔軍は蒲陽城に立て篭もった。

河東_徐達中大夫率いる、南郡_將軍軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 隴西_舒鳩脩邑宰率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。



結局、南郡_將軍軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 河東_徐達中大夫は蒲陽城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

蒲陽城は隴西_舒鳩脩邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、南郡_將軍軍が漢中_輔軍領平陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、漢中_輔軍は平陽城に立て篭もった。

東平_張統中大夫率いる、南郡_將軍軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_鄭援上大夫率いる城兵に撃退され、平陽城は持ちこたえる。



◆ 地方叛乱指導者であった漢中_棘穰は、民を思う漢中_輔基の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。



102年